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診療というサービス ~矯正歯科の啓蒙、普及のために、自分がやらなくて誰がやるのか~
~昭和42年に新宿東口駅前にてご開設されていますが、新宿を選んだ理由はどこにあったのでしょうか。~
開設当時にかかげた夢とポリシーが三つあります。
第一に、患者様に信頼され満足されるクオリティーの高い矯正臨床を行いたいということ。
第二に、矯正歯科という医療を日本の社会に正しく認められるように啓蒙・普及させたいということ。
最後に、矯正歯科の立場から日本の歯科医療を一般医科と同様またはそれ以上に評価されるように力を尽くしたいということです。
この目標を実現するためには、なんといっても開業する場所が大事であると考え、不特定多数の人が一番集まる新宿駅前を選びました。多くの人が当院の看板を目にし、「矯正歯科ってなんだろう?」と興味を持ってもらいたいと考えたのです。当時、矯正治療というものは珍しく「吃音の矯正のこと?」「一年ももたないよ」と陰口をささやかれたり、面と向かって言われたりしたものでした。 幸い親しい友人の一般歯科の先生方から、診療内容が矯正歯科専門であることにより患者様を多数ご紹介いただきました。大学病院からもご紹介をいただくなど、口コミで良い輪がどんどん広がっていきました。
センター開設と同時に整美会矯正同好会を発足させ講習会を開催しました。1960年代のアメリカは矯正歯科のゴールデンエイジであったため、私自身が1年に1度はアメリカに渡りセミナーを受けて最新の技術を持ち帰り、その技術を講習会で伝えるのです。知識や技術は人に教えることで自分のものになりますが、そのためには何倍も勉強しなければなりません。しかし目標を掲げたからには「自分がやらなくて誰がやるのか」とふるいたたせ、日本の矯正歯科全体のレベルを上げようと微力ながら取り組んできました。
【写真】
診察室へ向かう通路にあるレリーフ。
人類の進化の歴史から比べると矯正で2年間位の通院は、
ほんのわずかな時間ですよという、
医院から患者様へのメッセージがこめられている。
~医療法人社団日本整美会を昭和31年に設立された、初代の松本先生についてお話いただけますか。~
写真(左)Dr.E.H.Angle
写真(右)松本茂暉先生
松本 私の父・松本茂暉(旧姓 野澤茂)は大正13年、26歳のときにAngle College of Orthodontia(アングル矯正専門学校)に留学しました。現在でも近代矯正学の世界の父と呼ばれているアメリカの高名なエドワード・アングル博士の家に住み込み、歯科矯正学にどっぷり浸かって勉学・臨床に励みました。
昭和2年に帰国後、日本赤十字社中央病院に勤務し矯正歯科を担当、世界における矯正治療の基本となっているエッジワイズ法の矯正講習会を開催、松本矯正歯科研究所を設立し、学会誌「矯正学報」の発刊など、矯正学・矯正臨床の普及発展に貢献しました。当時でも矯正講習会の受講生は日本全国だけでなく、台湾やアジア各国から1500名を越えたことが記されています。
戦後、昭和31年に医療法人社団 日本整美会を設立し、診療しながら矯正講習会を再開しました。また国産の既製矯正用バンドやブラケットの製作・販売を戦前と同じように企画、昭和35年に完成させアイデミー社(現在のトミー㈱の前身)を私、川口兄弟の4名でスタートしました。しかし昭和43年、アングル矯正専門学校と同じような校舎を文京区本郷に建設中、失火のために全焼、志を全うできずに焼死し72歳の生涯を閉じました。
父の死は突然のことであり、私自身が新宿でセンターを開業したばかりということもあり一時は途方にくれましたが、亡父の思いを受け継いでさらに前進を始めました。昭和44年に日本最初のパノラマX線装置を導入しました。これにより被爆量は従来品の1/10と少なく、しかも全顎的な診断が容易になったので、導入当時は近隣の大学病院や歯科医院から患者様の撮影依頼が相次ぎました。
そして40年間、診療・研究に励んできましたが、昨年11月に残念ながらビルの取り壊しのため移転となり、同じ新宿に医院を新設(ハタ設計)、院名も「医療法人 整美会矯正歯科クリニック」と改称し新規開業しました。設備も三次元立体画像解析が可能な3DCT・X線装置(モリタ)を導入し、より精度の高い診断ができるようになりました。レントゲンのデジタル化に伴って薄いビスカのカルテファイルに変更しました。コンパクトなのに丈夫でしかもカラフルで分類しやすいのでとても気に入っています。
【3DCT画像】
移転を機に三次元立体画像解析が可能な最新設備を導入
つづく ・ ・ ・